2010年9月アーカイブ

新曜社の小田さんから連絡があり、牟田和恵編『家族を超える社会学―新たな生の基盤を求めて』の重版が決定したとのこと。嬉しいですね。発売が去年の12月10日ごろでしたから、10ヶ月弱で初版が売り切れた形になります。

ひきこもり問題や、赤ちゃんポストについてのコラムも収録されていますので、歴史を遡るというよりは現代の家族問題から解きほぐすタイプの家族社会学の教科書、あるいは、堅めの教科書に続く二冊目の教科書や参考図書として授業などで活用していただければと思います。

沢山の人が読んでくれますように。


本の紹介記事
http://www.synoikismos.net/blog/2009/12/post-13.html

ケアと正義を考えるための最重要文献のひとつ、Eva Feder Kittay著「Love's Labor」(1999)の日本語訳が白澤社さまより発売になりました。岡野八代・牟田和恵監訳で、邦題は、『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』です。久保田も、第2部と第3章のロールズ批判の前半の訳を手伝わせていただきました。

キテイはアメリカの政治哲学者であり、本書も第II部を中心に哲学的な議論を含んでいますが、岡野・牟田両氏のご尽力により、たいへん読みやすい訳になっていると思います。特に、6章「私のやり方じゃなくて、あなたのやり方でやればいい。セーシャ。ゆっくりとね。」のように、エッセイ調で構成された章もあり、重度の知的障碍を持った娘さんとの関係の中で鍛えられたキテイの哲学の源泉を垣間見ることができます。研究者のみならず、日々ケアの現場で依存にかかわる労働を実践されている方々にも、手にとって頂ければ。

ちょっと高いですけど、翻訳書はどうしても値段が下げられないみたいで。



<本の紹介>
子育て、障碍者・病人・高齢者の介護など、主に女性たちが担ってきたケア労働。そのため女性は、社会的に不利な立場におかれがちだった。重い知的障碍を持つ娘との生活を送ってきたキテイが、ロールズ「正義論」を大胆に批判しつつ、女性たちの経験を包摂する真の男女平等はいかに実現されるかを問い、公正でケアの行きとどく社会への道しるべを提示する。

<著者紹介>
ニューヨーク州立大学ストーニー・ブルック校哲学科教授。女性学研究科教授、医学・共感ケア・生命倫理センター長を兼任。専門は、西洋哲学、フェミニスト倫理学、社会思想。

<目次>
第I部 愛の労働―依存は何を要請しているのか
 第1章 依存と平等の関係
 第2章 脆弱性と依存関係の道徳
第II部 政治的リベラリズムと人間の依存
 第3章 平等の前提
 第4章 社会的協働の恩恵と負担
第III部 みな誰か母親のこどもである
 第5章 政策とケアの公的倫理
 第6章 「私のやり方じゃなくて、あなたのやり方でやればいい。セーシャ。ゆっくりとね
      ―個人的な語り
 第7章 違いのある子どもへの母的思考

2010年の7月頃に、ブログtate-lab - 教育・学習について研究する院生のblogにて、『他人と暮らす若者たち』についての書評を頂きました。著者の舘野さん自身はシェアをしているわけではないのですが、かの有名な「まれびとハウス」にお知り合いがいるそうで、いろいろなシェアに遊びに行ったりインタビューしたりしながら考えを膨らませているようです。彼自身は、教育工学の院生さんだとか。

書評にいろいろと刺激を受けましたので、お礼もかねてリプライさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。

さて、舘野さんは、シェア入門書としての拙著の意義に触れた後で、次のような問題提起をされています。まだあいまいな形の問題提起ではありますが、久保田もずっと悩んできたことなので、フライング気味に取り上げることをお許しください。


さて、ここからは私の勝手な意見になります。
この本はすごく面白いしまとまっているけれども、いま私がたまにお邪魔している「まれびとハウス」などの例をみてみると、この本に書かれているシェアハウス的な生き方より少し先を行っているような感覚があります。
この本には、シェアすることの魅力として、
・節約志向
・快適志向
・家族という役割を超えて
ということが書かれているのですが、
僕が通っているシェアハウスには、
・創造志向
というか、「ここから新しいつながりが生まれて、いままでにないものを生み出すのだ」という気概を感じるような気がします。
その「創造をつくる土台としてのシェアハウス」というのでしょうか。そういう側面はこの本には書かれていない部分であり、今後大事になる部分なのかなあと思いました。


おそらく、一般的には舘野さんのおっしゃるような、「創造の土台」としてシェアを理解すること、すなわち、異質な他者と出会い、知が交錯することで生まれる、クリエイティヴィティのようなものを、シェアに求めることはごく自然な流れだと思います。実際、シェアやスクワットをするアーティストやアクティヴィストは、共同生活にこの種の刺激と興奮を求めている側面は否定できないでしょう。久保田自身の経験からも、特に今は分野の違う大学院生4人で生活していますから、この種の刺激を受けますし、シェアをしていて良かったと思う理由のひとつではあります。

けれど、シェアの重点をこの種の刺激や創造性に置くこと、クリエイティブな潜在力を強調することを、久保田は、これまで極力避けて来ましたし、今でも消極的です。ですから、この点を大切にしている人が、新書を読んで創造性へ配慮が欠けていると感じられたとしたら全くその通りで、それは久保田が意識的に避けてきたからだと思います。この点を舘野さんに正面から指摘された形になり、正直ドキリとしました。

この点は、まだ上手く言葉にならない部分もあり、ちゃんと説明できるか分からないのですが、もう少し詳しく解説してしてみます。


1.目的別シェアと無目的シェア

まず、舘野さんが無目的性について書かれておられたので、それを軸に整理してみたいと思います。シェアに限らず、多様な人々が集まり、ゆるやかな目的を共有しながら、対話し、新しいものを生み出す空間は、「サロン」の理想としてこれまでも重要な価値を与えられてきました。舘野さんがおっしゃるような、(上手くいっている)大学院の研究室かもしれませんし、サークルの部室かもしれませんし、アーティストが集まるスクワットかもしれませんし、アクティヴィストが集うカフェのようなものかもしれません。新書でも紹介したCさんの例は、美大の男子学生3人による「アトリエ」のようなシェアとして、この種のシェアに分類できると思いますし、最近話題のphaさんたちによるギークハウスも、プログラマーさんたちの集まりとして、似た雰囲気を持っていると思います。

こうした、いわば「目的別シェア」には、たとえゆるやかであれ中心的な関心があり、この中心はシェアメイトを募集するうえでも、シェアを運営するうえでも非常に強力な回路を提供するでしょう。趣味を同じくする人が集まることで、対話の機会も増え、比較的似たものが集まり、経済的・非経済的な利害の摺り合わせを容易にするでしょう。映画好きが集まれば、大型テレビをみんなで購入したりDVDをシェアすることに抵抗が少ないでしょうし、パソコンオタクが集まれば、太いネット回線を引いたり電気代の不均衡を気にせずゲームができるかもしれません。料理好きが集まれば、調味料や調理器具を共同で買うのはずっと楽になるはずです。

これに対して、「目的別シェア」のように中心的な関心のないシェアを、「無目的シェア」と呼びましょう。正確には目的がないわけではなく、「住むために住む」という意味で、シェア自体が目的のシェアのことです。シェ アメイトとの関係は、この「共に住む」というプロジェクトとの関係で構築されます。シェアメイトを選ぶ段階で最も重要になるのは、趣味が同じかとか、一緒 に住んでいて面白い奴かとか、ギターが上手いかとか、知的刺激を与えてくれそうかではありません。生活時間が合うかとか、経済的な志向が似ているかとか、 清潔さの水準が似ているかとか、そういう生活上の一致不一致が重要になってきます。

もちろん、「目的別シェア」と「無目的シェア」は、厳密に分けられるものではなくて、あくまで理念型です。「目的別シェア」であっても、共同生活者の視点なしには成り立ちませんし、「無目的シェア」であっても、好みや趣味の偏りは自然に生まれてくるものです。それでもなお、どちらの要素が強いかによって、大まかな特徴や危険性を指摘することはできるでしょう。

その意味で久保田は、シェアに刺激や創造性を求めることは、シェアのイメージを「目的別シェア」に引きつけてしまうものだと考えています。共同生活の中での創造性や刺激は、どれほど重要だとしても二次的な要素で、あればラッキーなくてもOK、レベルのものに留めておくべきだと考えています。

なぜか。


2.日常の共有と非日常の共有

やはり舘野さんが日常と非日常について議論されていたので、この点から考えてみたいと思います。

日本へのコレクティブハウジングの紹介者の一人である建築学者小谷部育子氏は、コレクティブの理念が「非日常」の共有ではなく、あくまで「日常」の共有であることを強調しています。日常を共有するということは、週末にバーベキューをやることでも、夜中に一緒にゲームをすることでも、誕生日に友人を招いてパーティーをすることとも違います。共に食べ、一つ屋根の下で寝て、共に考え、共に決定し、費用を分担し、共に生きていくことです。

久保田もこの考えに共感します。このような意味で、シェアという日常の生活空間で創造性を強調することは、シェアを日常の共有という側面を覆い隠し、非日常的な魅力に還元してしまう危険性がある。たとえば、シェアを「毎日が合宿のようだ」とか、「毎日仲間とわいわい暮らせるなんて楽しそうだ」と形容することがありますが、これは非常に両義的です。当たり前のことですが、毎日が合宿なら、それは合宿ではない。日常から見て、非日常への「落差」は魅力的ですが、それは非日常が毎日続かないが故に魅力的なのです(ここれは詳しく触れませんが、これはジェンダーの問題でもあります)。

もちろん、家族主義的で孤立主義的な日本の日常観から考えれば、シェアは日常の意味それ自体の変革を伴わざるを得ませんから、外から見れば、家族との生活や一人での生活と比べて創造的だったり刺激的だったりすることは十分にありえます。いわば、既にある「日常/非日常」を超えた、「新たな日常」の創出を伴っていることは間違いないでしょう。

だとしても、居住者の視点からみればそれは、形を変えてもなお「日常」なのであって、たとえ友人の出入りが激しくても、毎週のように誰かが泊まって行ったとしても、それは新たな「日常」の出来事に過ぎません。日常と非日常が再編されることと、その区別がなくなることは全く別のことです。たとえばまた、どれほど外部に開かれたシェアであっても、居住者と外部の人間の境界は依然として存在しています。境界が曖昧になったり可変になったりすることと、境界が無くなることは別のことだからです。居住者は、自分たちの「日常」について議論し、妥協し、決定する必要と責任がある。

それゆえ、久保田はどちらかというと、「新たな日常」の中の「新たな」側面、すなわち外部から見れば刺激的で創造性の予感を感じさせるような派手な部分に目を奪われて欲しくない。むしろ、それがあくまで「日常」であること、それも共同的な「日常」である点を大切にしたいと思っています。もちろん、「日常」をどれだけ刺激的なものにしていくか、「日常」をどれだけ外部に開いていくかは、居住者の間の関心と意思決定にかかっています。あるシェアは、刺激的で創造的な開かれた「日常」に合意するかもしれませんし、あるシェアは閉鎖的で内向的な保守的な「日常」にこだわるかもしれません。その両方があっていい。そのどちらであっても、居住者によって共同的に選びとられるプロセスが何よりも重要なのです。

地味に思われるかもしれませんが、この点こそが、家族との暮らしや一人での暮らししか選択肢が無い日本の生活文化をより根本的な意味で変革する可能性を持っていると考えています。


3.「陳腐なシェア」のススメ

そんなわけで、久保田が考えるシェアは、元も子もない言い方をすれば、ひどく陳腐でつまらないものです。一人で住むよりも安いから他人と一緒に住むこと。一人よりも楽だから、他人と家事を 分担すること。もしもっとお金があれば他人と住むのなんて避けたいけど、お金がないから仕方なく住居をシェアすること。それでも、一人で住むよりは誰かが いた方が少しだけ安心で、ましだから他人と住むこと。「住むために住む」こと。シェアメイトに不満が山ほどあるし、もっといいシェアがあればすぐにでも移りたいけど、今のそれなり に機能していること。シェアメイトと仲がいいに越したことはないですが、仲が悪くたってかまいません。何の知的刺激もなくても、なんの創造性を発揮できな くても構わない。

繰り返しになりますが、久保田の考えるシェアは非日常ではなく日常の共有に主眼があります。日常にいちいち刺激や創造性を求めていたら、いつかは疲れてしまう。疲れてしまったら、長続きしないです。長続きしないと、結局はいわゆるフツーの生活に戻ってしまう。もちろん、シェアを経験し、他人との生活に慣れ、交渉や利害調整に長けた人がフツーの生活に戻るとき、フツーの生活自体が変革を迫られるという点では、これも非常に重要な側面を持っているともいえます。

それでもなお、より根底的な変革の可能性に賭けるために、久保田はシェアを非日常的な刺激や興奮と結びつけることを極力回避したい。地域の活動や、生協の活動、自治会やマンションの管理組合がクリエイティブでなくてもいいように、シェアもクリエイティブでなくてもいいと思うのです。これは、久保田が家族研究や生活経済研究の立場からシェアにかかわっていることと関係しているのかもしれません。


シェアは「創造の土台」であってもいい。

でも、別にそうでなくてもいい。「生活の土台」でありさえすればよいのです。


以上、舘野さんの議論に反論しているというわけではないのですが、力点の違いを整理したく思い、長文になってしまってすいませんでした。書評頂いたことに重ねてお礼申し上げます。余談ですが、舘野さんがシェア居住者へのインタビューから書かれていた「シェアは3人以上がいい」という点について、牟田和恵編『家族を超える社会学』に収録された久保田の論文の中で「二人性」として概念化を試みています。もし興味があれば。

『家族を超える社会学』紹介記事
http://www.synoikismos.net/blog/2009/12/post-13.html


「まれびとハウス」のみなさまにも、どうぞ宜しくお伝えくださいませ。


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